子どもの頃、ベニスの風景画をみてとりこになったことがある。そこにはゴンドラがロマンチックな魅力を漂わせ浮かんでいた。その絵画をうっとりといつまでも眺めていたものだ。乗り物が進入して来られない狭くて曲がりくねった通りや、運河沿いの建物がつくり出す一風変わった雰囲気。魅惑的な入口をもった店やカフェテラス。眺めているだけで、この別世界に行ったような気分になった。そして、子供心に「なぜ自分の街にはこのような魅力的な場所がないのだろう」と疑問に思ったものである。

1977年に、私はタウン誌を創刊することになった。そのテーマの一つに『魅力的な街づくり』があり、まずは自分の街をよく知ろうと歴史を調べてみた。富山の街は、かつて度重なる洪水に苦しめられ、その解決法として、富山城の北側を湾曲して流れる神通川にバイパスを造り、その跡地を現在の松川だけ残して埋め立て、川の上に誕生した街であることが分かった。富山が『水の都』といわれる所以である。

そうした歴史が分かってきた頃、市の方から、中心部の観光名所を考えてほしい、との話があり、即座に松川に遊覧船を浮かべることを提案した。ベニスのゴンドラのように松川にも遊覧船がロマンチックに行き交えば、富山の歴史的遺産がよみがえると思ったからだ。

神通川だった松川には、明治の中頃まで舟橋が架けられていた。舟を64隻、鎖でつなぎ、板を渡し、その上を橋として使っていたのだ。最近、ベニスの資料を調べていて驚いた。ベニスにも全く同じ舟橋が架けられていたからである。

海から生まれた街、ベニス。川から生まれた街、とやま。海と川の違いはあれ、どちらも『水の都』である。

1997年、アメリカのベニスをめざし、街づくりを成功させたテキサス州のサンアントニオを訪れた。1920年代、市の中心部を湾曲して流れるサンアントニオ川は、数年に一度、大洪水を起こしていたが、バイパスによって安全性を確保し、川の中にに遊歩道や森林公園を造りだした。
地球の反対側にも全く同じ歴史をもって誕生した街があることの驚き。と同時に、同じダイアモンドでも、サンアントニオはピカピカに磨かれ、輝きを放っているが、松川は原石のままであることを知らされた。川幅が十メートルほどで非常にヒューマンスケールであり、街の中心を遊覧船が行き交っているところまで一緒だ。松川の絵ハガキを市民に見せると、「まるでサンアントニオ川のようだ。地球の反対側のよく似た川同士、姉妹提携をしませんか」と提案されたほどである。

サンアントニオ川の街づくりに学ぶべき点はたくさんある。川辺にはレストラン、コンベンションセンターが集まり、賑わいを見せている。リバー劇場や庭園、橋や照明なども美しい限りだ。市民や観光客をより楽しませるために多くの工夫が凝らされ、清掃や樹木の手入れ、水質の保全などの管理も行き届いており、心地よい環境が保たれていた。

車が進入して来ない川の中の街は、まるでベニスのようだ。何物にも煩わされない、囲まれた空間が独特の雰囲気をつくりだしている。その秘密は、街が周囲の道路面から平均6メートルほど低いことにあると気付いた。まるで小さな峡谷のようなこの街は、世界中から年間1,400万人もの観光客を引き付けるようになり、全米ナンバーワンのモデル都市に輝いたという。

松川も水位調整施設を造り、川底を下げることができれば、他から隔絶した強い一体感をもつ別世界をつくりだせると思った。同時に、いたち川、富岩運河とも川の中の遊歩道によってつなぎ、いちいち道路面に上がらなくても回遊できるようにすれば、神通川から生まれた富山の歴史を、川の中からたずねることもでき、『富山らしい』街づくりが可能になるのではなかろうか。

遊覧船で松川、いたち川、富岩運河がつながると、富山市中心部と東岩瀬間を帆船が往来し、最大の通商路として栄えた往時がよみがえることにもなる。

「理想は大海に浮かぶ星のようなものだ。決して手にはつかめない。しかしそれはわれわれを導いてくれる」とロングフェローは言っている。富山は決してベニスにはなれないだろう。しかし、ベニスをめざすことによって、富山をベニスのように美しくロマンあふれる街に近づけていくことはできるはずだ。アメリカのベニスをめざしたサンアントニオのように。

そのための努力を続けていけば、世界中から『東洋のベニス』と呼ばれる日がきっとくるであろう。そして、河川修景計画が実現されれば、どこにもない魅力的な美しさを見るために、世界中から観光客が富山の街にやってくるにちがいない。

(平成10年〈1998年〉5月1日発行 『けんせつ ほくりく』に掲載された「随筆」より)

 

 

“水の都とやま”推進協議会
理事長 中村孝一