第4回総会 第2部 記念講演 「富山の街づくりと松川」京田憲明氏(2021年5月16日)

“水の都とやま”推進協議会 第4回総会(2021年5月16日(日))

第2部 記念講演 15:00〜16:00頃
「富山の街づくりと松川」
京田憲明氏
((株)市民プラザ 専務取締役、元富山市都市整備部長)

 

富山市のコンパクトシティ黎明期

平成元年、富山市民プラザ竣工、大手モール完成
=1989年 城址公園・松川に「親水の庭完成」

みなさん、改めまして、こんにちは。市民プラザにおります京田と申します。5年程前までは富山市の都市整備部長という仕事をしていました。今回、中村さんから、何か話してくれと言われて、いやいやそれだったら現職の市役所の人を呼ばれた方がいいんじゃないですか、と言ったんだけど、まぁまぁそう言わずにということでございまして。まぁおそらく現職の人ってなかなか、言ってはいけないことなどもあるから、もう卒業して5年も経ったら何言ってもいいだろうということでお呼びいただいたかなと思いましたので、少し話がちょっといきすぎるところもあるかもしれませんが、そこはご容赦いただいて。今日の話は、富山市のまちづくりというか、ここ30年ぐらいの、なんか思い出話みたいなことになると思いますけれども、1時間程、おつきあいいただければと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 

7.7億円 VS 55百万円

さて、最初に、グッドラックさんの方からホームページから写真を1枚いただきました。なんでこれいただいたかと言うと、実は、この「親水の庭」というのは、私がまだ30ちょっとぐらいの時に、富山市の公園緑地課にいまして、ここの設計を担当させていただきました。で、時はちょうど、平成元年。私が今います市民プラザが竣工した年でもありますし、と同時に、大手モール。かつてはあこに柳が植わってて、中央分離帯に鳥小屋なんかもあったことをご記憶の方、何人かおられるかもしれませんが。そこが大手モールに変わって、その後、路面電車が開通した時にもう1回変えましたから。30年前の大手モールが完成した年です。で、同じ年にまさしく、この「親水の庭」を城址公園で工事していました。で、7.7億円、7億7000万と5500万と書いてありますが、大手モールにかかった費用が、7億7000万円でした。で、この「親水のにわ」は、5500万円です。桁が一つ違う。10分の1以下の費用でした。ところが、どちらも3月末に完成して、4月オープンでして、こっちの大手モールは、当時、都市計画課が担当しており、「親水の庭」は公演緑地課で私が担当していました。で、4月になってテープカットと言いますか、お披露目の式を両方一緒にやったんですけれども、「親水の庭」の方がものすごい大きな記事を書いていただきまして、大手モールはあんまり大きな記事にならなかった。で、当時の都市計画課長からは、「いやー、京田にやられたじゃ。おらとこ、7億7000万をかけたんに、記事がちっちゃかった」と言って嫌味を言われましたが。まぁ、そんなことを覚えています。ただお金をかけるということではなくて、ここにあるものっていうのは、実は、これはまだ最近の写真ですけど、こういう樹木というのも、ほとんどもともとあったものを使いながら移植をして使っておりまして、おそらく5500万のほとんどは、ここを掘って、石垣を積み直したりする、いわゆる土木工事というところにお金をかけただけで、他に新しいものを買ってきたというわけではないんで。ただ、当時を思い返してみますと、もともとはここまっすぐつながっておったんですが、ここを掘り込んでます。この城址公園というのは、富山市の公園になっていますが、実は底地は県が所有しています。で、県から富山市が無償で借りて、公園として開設、運営をしているんですが。こうやって掘ってしまいますと、ここが自動的に河川区域になる、そんなことは当時は全く知らなかったんですが、河川区域になります。そうすると、ここは一級河川ですから、国の川です。なんと、ここを掘ったおかげで、県の土地が国の土地に勝手に変わっちゃったということがあとから判明しまして、で、県から呼び出しを受けました。「こら、なにしてくれとるんや。県の土地がこれだけ減った」ということで、呼び出しをくったんですけれども、当時の知事も、「いや、いいがになったからいいねか」みたいなことを言っていただきまして、で、まぁまぁなんとなくことなきを得たということでございます。当時、「なんやこれ?」と言われたら、本当に大変なことになっとったかな、と、そんなふうにも思います。それが平成元年ですけれど。

 

総曲輪通り南地区の再開発の機運
大和百貨店移転関連再開発3点セットの起点

それから、平成4年。ちょうどバブルが弾けた頃でございます。で、平成4年に何が始まったかと言うと、この総曲輪通りの南地区の再開発。今、大和百貨店が入っていますが。あの再開発ビルの動きが始まりました。動きと言いましても、県とか市がやろうと言ったわけではなくて、当時、そこにおられた地権者の方達が、再開発ビルを立てるんだということを突然発表されました。で、当時発表された時は、あそこに全日空ホテルを誘致するという計画を発表されまして。で、北日本新聞の1面にどーんとそれが載りました。で、実は、その時、県と富山市は、今のANAホテルがある場所、もともとは市の公会堂、県の保健所でございましたが、そこにANAホテルを誘致するということを水面下で進めておりまして、県・市が進めているところに、地元で今の大和のあるあの場所にANAホテルを誘致する、という記事が出たもんですから、当時、県知事は相当、カンカンになって怒られた。「何の相談もなしに、これ、何やっとるんだと」ということで。「一切ここの再開発には手を貸すな」という指示が出たそうでございます。とはいえ、平成4年、この頃はバブルも弾けてましたし、総曲輪通り、まちなかの賑わいも少し陰りが見えてきた時期でございます。陰りが見えたのに何で再開発か、というと、陰りが見えたから、商業者の人たちが、「このままではどうにもならん。なんとしかして、再開発をやって、立ち直らなきゃいけない」と思われた、ということでして、あんまり前向きな再開発というよりは、自分たちの商売をなんとか、傾きかけてるやつをなんとか立て直そうということで始まった再開発でございました。ということで、中心市街地の衰退が見え始めたときです。で、大和百貨店移転三点セットとありますが、この三点セットは、大和が入ってる建物そのものの再開発、平成4年に準備組合ができて、平成19年に完成してますが、この再開発と、グランドパーキング。今、うちの市民プラザが所有して運営していますが、この駐車場の再開発。それともう一つは、ガラス美術館が入ってます、元の大和の跡地の再開発。その3つを三点セットと呼んでおりますが、その三点セットが始まるきっかけになったのが、この頃です。実際には平成4年には地元の人たちが再開発準備組合を作ってやりたいと言われて、それから、ANAホテルなどのいきさつもありましたので、4年ぐらいは全く動かなかったんですが、平成8年頃から、県と市で、大和百貨店が相当老朽化してるから、何とかしなきゃいけない。その候補地としてここがいいんじゃないか、ということで、平成8年頃から実際には始まったということでございます。

 

時代はバブルのなごり
駅北地区の開発(富山都市MIRAI計画)、北陸道に東西IC追加、外郭環状道路計画
都市計画法の改正=都市マスタープラン制度創設 2人の学識経験者から「時代は変わるべき」

バブルが崩壊をした時期でございますけれども、とはいえ、まだ富山市では、バブルの名残りみたいなものが続いておりまして。たとえば、駅北地区の開発。富山都市MIRAI計画と言ってましたけども、北電の本社ビルができたり、その向かい側にアーバンビルというか、いわゆるオーバード・ホールの入っているビルですけど、ああいうものができたり、というのがこの頃から計画が始まっております。で、富山都市MIRAI計画と当時呼んでおりましたが、ちょうど横浜の「みなとみらい地区」、あれは、みなとみらい計画と呼んでおりましたが、全く同じ時期に国の同じ補助事業、メニューを使ってそういうものができた時期でございます。それから、北陸自動車道の当時、富山インター、富山市内には富山インター一つしかなかったんですけど、西と東にインターチェンジを追加したい、という構想もこの頃に始まりまして。で、その東西インターチェンジをつないで、ぐるっと富山市を一周する大外環状、そういうものを自動車専用道路で作るという構想がありました。自動車専用道路の外環状は、今はできていませんけれども、同じ時期に計画していた金沢は、山側環状、海側環状ということで、できている。そこが、少し、富山と金沢とのまちづくりの進み方の違いかなというふうに思ってます。そういうバブルの名残りでどんどん、開発をしていこうということばかりやっておったんですが、その中で平成4年に、都市計画法が改正になりまして、都市マスタープランというものを作るということになりました。いわゆる、まちづくりの総合計画と言いますか、そういうものを作るという制度ができました。で、この時に、蓑原敬(みのはら・けい)先生。蓑原さんは、元国の建設省の住宅局の課長をされてた方ですけれども、その方が独立して、都市計画の事務所をつくっておられて、この蓑原さんを委員長にして、もう一人、森村道美(みちよし)先生という方。この方は東大の先生ですけれども、その方が是非委員になりたいとおっしゃって、この委員会ができました。実はこの森村先生というのは、東大を卒業されて、そのまま東大の助手をして、教授をして、都市工学科の学科長までされて、東大一筋でこられた方です。まだ東大の助手の時代、若い頃に、富山高岡新産業都市というのがありましたが、その計画を作るために東大の助手だけれども、県庁に机と椅子を置いて、富山に住みながらその計画を作られた時期なんです。その時に、もう、森村先生は、都市マスタープランの原型みたいなものを必要だということで、昭和41年に、富山市都市開発基本計画という計画を作られています。非常に古い計画なんですが、実はその計画には、今の高速道路ですとか、そういうものの位置がぴったり今とあてはまる形で書かれています。で、なんでそうなったかというと、この先生は東大の先生をされてましたから、そこの卒業生がどんどん国の役人になって、建設省の役人にもなります。そうしますと、富山市から街づくりで、ここに道路を作りたい、ここに鉄道を引きたいという話を持っていくと、その森村先生に習った学生さん達が、みんなその富山市都市開発基本計画という先生が書かれた本を持っておる。それを見ながら、いやいや富山市さん、道路はもうちょっとこっちがいいよ、とか、なになにはこっちがいいよ、という指導をされるんで、結果的にこの先生が作られた本そのまんまに富山市が出来上がっています。で、そんなことがあって、建設省からはずっと富山市は街づくりの優等生だという言い方をされ、褒められてきたということもありますけども。そういうご縁もあって、平成4年に都市マスタープランを作るとなった時に、森村先生は自分からもう1回、何年ぶりなのかね、30年ぶりですね、昭和41年に作ったものから、もう1回、平成になって、都市マスタープラン、そういう計画に自分がかかわりたいということで富山に来られました。で、この時、我々市役所にいた人間は、やっぱりこのことが頭にありましたんで、まだ、どんどん、どんどん、広げていく、街づくりを外に向かって広げていく計画を作ろうとしてました。で、大きな大外環状、道路を作って、インターチェンジも作ってという話をしてましたら、この2人の先生からは、「いやいや、もうそういう時代じゃないんだよ。時代は変わるべきなんだよ」というふうにおっしゃいまして、これからは、当時、コンパクトシティと言われたかどうかちょっと定かではありませんが、やっぱりもっとこう、縮まっていく都市ということを考えなくてはいけないということを提案されました。で、とはいえ、世の中の流れはやっぱりこちらで、このことをどんどん外に向かって発表してますから、もう外に伸ばす計画は作れませんということにはいかないんで、この先生方にお願いして、「趣旨はよくわかりました。だけど、今回はやっぱり今までのを踏襲して、外に広げるような計画づくりをさせてください」という話をしました。この先生達は、まぁそれはわかったとおっしゃったんですが、それとは別に都市マスタープラン、いわゆる中心市街地の計画、そこを特化したものを作ろうとおっしゃいまして、これは結果的に外には出せない計画。広げよう広げようというマスタープランとは逆の意味合いをもった計画になりますので、外には出せないんだけど、市の内部で勉強する材料としてこんなものを作ろうとおっしゃって、そういうものを作ってました。

 

オーバード・ホール、富山国際会議場が竣工
国が「歩いて暮らせる街づくり」構想を発表、富山市がモデル都市に選ばれる

さらに少し年が進んで、平成8年にオーバード・ホールが竣工しています。それから平成11年には富山国際会議場。これはANAホテルと一緒にオープンしましたが、できた。この前に、平成4年頃には富山市役所の今の庁舎ができたり、あるいは、そのもう少し前には、マリエとかエスタとか、CiCとかあのへんのビルもだいたい、昭和の終わりから平成の初めにかけてできた。まさしくバブルの時代に計画して、バブルの時代にできあがった建物です。先程、都市マスタープランというものをこっそり作るということをやってたと言いましたが、ようやくそれが日の目を見る時がきました。それが、平成11年、当時、小渕総理が、山田村にお越しになりました。で、あの頃山田村は、各家庭にパソコンを1台づつ配るという事業をやっておられて、電脳山田村というキャッチフレーズがありました。で、小渕総理が面白いことやってるなと言って見に来られたんだと思いますが。その山田村に来られた時に、「これから国は歩いて暮らせる街づくりというものをやるんだ」というふうに発表されたんです。で、この時、我々は、「歩いて暮らせる街づくりって何のことだ?歩いて暮らせるんなら寝てても暮らせる街づくりがもっといいね」と冗談言ってましたけど、それが聞いてみると、まさしく今、富山市がやろうとしている、街中を歩くことで誰もが生活できるような、そういうコンパクトな街づくりをしていくという方向だったことがわかりました。で、モデル都市を全国で10カ所募集するということでしたんで、これは富山で総理が言われたんだから、それは何としても手を挙げなければならないだろうということで、富山市も手を挙げました。で、実は当時、県の中では福岡町をモデルに選ぼうという話が進んでおったようなんですが、それは綿貫先生の力もたぶんあったのかと今になって思いますが、大方決まっておったようですが、予想を裏切って富山市が選ばれました。 富山市がなんで選ばれたかというと、この時に簡単な計画を作って出さなきゃならないんですが、その作った計画の土台になっていたのがこっそり前に作ってた都市マスタープランでした。蓑原先生とか、森村先生とかっていう第一線の先生方が監修された計画ですから、それは当然素晴らしいものになってて、それを国に出したら、富山市がモデル都市に選ばれてしまいました。しまったというか、選ばれることになりました。で、早速、翌年から、歩いて暮らせる街づくりの調査というのが、富山市で始まったということです。それが平成12年。

 

富山市に「中心市街地活性化推進室」が誕生
(株)まちづくりとやま 設立、まいどはやバス 運行開始

平成12年というと、その他に、富山市では、旧市街地活性化推進室というものが初めて組織としてできました。これも、全国的に中心市街地を活性化する必要があるということでできまして、同時にまちづくりとやまという会社を設立して、まちづくりTMO、タウンマネジメントオーガニゼーションと言ってましたけど、そういう街づくりをする会社というものが全国の都市で作られた時代でもありました。富山市もその時に作って早速、平成13年からは「まいどはやバス」というものの運行を商工会議所さんと一緒になって始めるということがありました。

 

カリスマ市長登場(1) 2002〜2004

平成14年(2002)1月、森雅志市長就任 「このままでは30年後に富山市は生き残れない」
タウンミーティング 3年で100回以上、ライトレールやグランドプラザの必要性を市民に語る

さて、平成14年に森前市長が初めて富山市の市長に当選されました。で、ちょうど富山市が歩いて暮らせる街づくりの調査というようなことなので、少しコンパクトシティに近いような話をしようかなとしていたところになられた森市長は、よく講演なんかでもお話をされていますが、「このままでは30年後に富山市は生き残れないと思った」というふうにおっしゃってます。本当にそう思われたのかどうかというのはよくわからないところもあるんですが、おそらく、市長になられていろんな話を聞く中で、どこかのタイミングでそう思われたんだと思ってます。で、市長は就任直後から、このことについてタウンミーティング。3年間で100回以上やったとおっしゃってますが、かなり頻繁にあちこちでかけて行って市長のタウンミーティングをやっておられました。で、この「30年後に生き残れない」というのは、今はみなさんもよくご存知の話だと思いますが、非常に人口が薄く広がってしまって、車がないとどこへも行けないようなこんな生活というのは、将来きっと破綻するということをおっしゃったわけで、その時のキャッチフレーズが、「コンパクトシティ」ということだったわけです。で、タウンミーティングで実際にコンパクトシティが必要だという概念的な理論を話すだけでは、なかなか市民の人たちは理解できないんでしょうが、その時に、後にできるライトレールですとか、グランドプラザというものが必要なんだと。コンパクトな街づくりにはやっぱり電車が走ってたり、まちなかにみんなが集まれる広場が必要なんだということをおっしゃってました。

 

平成14年(2002)、大手モールで「大手市場」始まる
同年、建設省から望月助役を迎える
市若手職員による「コンパクトなまちづくり研究会」発足
平成16年(2004)、おでかけ定期券事業 開始

同時に、14年に市長になられてすぐに、大手市場というものが開催されています。春に、私、その時、中心市街地活性化推進室というできたばかりの時に呼ばれてそこにいたんですけれども、市長が就任されてすぐ私の上司に大手モールがあんな広い道路なのに、それから歩道も広かったのに、使われてなくてさみしいから、そこでなんかをやれということが、マーケットみたいなものをやれという指示が市長からすぐにきまして、就任直後の市長の指示ですから、当時の私の上司なども、あわてて、市長がなんかこんなことやれと言ってると。なんかやらんなん、ということで、始まりました。で、市長が就任されたのが1月で、なんかやれという話が3月か4月ごろだったと思いますが、じゃちょっといろいろ考えて秋頃からと言ったら、上司は「ふざけんな。すぐ明日からでもやれ」ぐらいの勢いでして、当時、バタバタと、民間の人たちと話をしながら、市長からは、大手市場をやるのに、こういうテントなんかも必要だし、3年間で1000万出してやると。3年間1000万を好きに使っていいけど、その後は一切税金は出さないから民間の人たちで継続して運営できる仕組みを考えろというのが宿題でした。で、なかなかそうは言っても難しいんですけども、まぁまぁいろんなこともありながら、今でも続けていただける、非常にありがたいことだというふうに思ってます。もう20年ぐらいになります。同時にその時に、建設省から望月さんという助役さん、2人目の助役ですけど、技術系の助役さんが初めて来られました。この人が実は富山市のコンパクトシティには非常にキーマンだったと私は思ってまして、電車のことについても、グランドプラザについては、まさしくこの人がガラスの屋根付き広場を作ろうと言い出した張本人です。これは、私が直接話を聞きましたので、よく覚えているんですが、当時、グランドプラザは、大和百貨店ができたり、あるいはグランドパーキングができたりした時に、大和の荷捌きの場所にしようという計画だったんです。ところが、望月さんは、「いや、それはもったいない。駐車場と百貨店の間の空間だから、そこは人が一番行き来する場所だ。だからそこを荷捌き場に使うのは非常にもったいない」ということを言われて、広場にしようとおっしゃいました。とはいえ、大和百貨店はご承知のように、国道41号側は車の交通量が多くて、とても荷捌きには使えませんし、総曲輪通りももちろん、ああいうアーケードがあるから使えませんし、そうすると残りは平和通り側、現在のあの場所しか荷捌きには使えなくなるんですが、あちらもどちらかと言うと、広い通りに面した正面側なんで、今のグランドプラザの場所しか荷捌きとしてはできる場所はないね、っていうのがだいたいの、大方の了解事項でしたが、望月さんがあそこをガラスの屋根付きの広場にしようということで、計画がそこで大きく変わりました。だから、この方がいなかったら、あのグランドプラザという広場はできていなかったということになります。で、望月さんは、すぐ市長のところに行って、その話をするぞと言われて、「京田、お前も一緒に来い」ということで、市長室に望月助役と一緒に入りました。で、望月さんは市長に、「いや、市長、ここの場所だけど、ガラスの屋根がついた広場に」。あ、ガラスの屋根とはその時は決まってなかったですね。「屋根がついた広場にしたい」というふうにおっしゃいました。市長は、「広場か。うん、いいね、いいね。わかったよ」と言われたんですが、その後、「だけど、屋根までかけたらお金かかるだろう。だから、屋根はいいんじゃない?」とおっしゃったんですが、すぐに望月さんは「いやいや、市長。富山みたいに雨も降る、雪も降る。こんなところで、屋根がないと、広場に使えませんよ」と。いうことでさらにおっしゃったら、市長は、30秒ぐらい、うーんと考えてて、「わかった。じゃあ屋根もかけよう」ということで決まりました。その時に、すでに望月さんは、平成14年の話なんですが、平成15年から始まるまちづくり交付金という非常に有利な補助制度ができたんですが、それができることをどうもご存知だったようで、それができれば、費用は国からかなりもらえるだろうということもあって、ガラスの屋根をつけられるということになったのではないかと思っています。同時に、望月さんは、コンパクトなまちづくりが必要だとずいぶん強く提案され、市長もだいぶん望月助役の意見を聞いて、なるほどそうだね、ということで、コンパクトシティということに舵を切られたんじゃないかと私は思ってます。で、望月助役は、コンパクトシティがこれから必要なんだけど、まず職員がそういう意識を持たないとだめだということで、若手の職員を集めて「コンパクトなまちづくり研究会」というものを作るから、お前らで勉強しろ、と言われたんです。その時私もそこに入ってたんですけれども、当時、コンパクトなまちづくりって、そもそもなんで必要なんだと。自分たちはいつも車で生活してるし、当時、もうファボーレもあったと思いますけれども、そういうところに買い物行くし、別にまちなかの商店街で買わなくてもいいし、というふうな思いがやっぱり基本的にはありました。で、とはいえ、車使い過ぎると排気ガスの問題もあるんじゃないかという意見も当然出ましたけれども、いやいやそのうち燃料電池の車になるからそっちの技術革新の方がいいだろうと言われて、誰もそれも反論できないまま、非常にあやうい勉強会でしたけれども、そんなことを2年ぐらい続けてました。でも、2年間続けていると、ヨーロッパの事例なんかをいろいろ勉強していく中で、なるほど、やっぱりコンパクトなまちづくりは大事なんだなとだんだん、少し思いが広がっていった。そういう時期。で、もう一つ面白い事業としては「おでかけ定期券」。ご存知の方多いと思いますが、富山市内の65歳以上の方は、このおでかけ定期券というものを持っていると、日中の時間帯、朝夕の通勤・通学時間帯は使えませんが、日中の時間帯であれば、市内どこからどこまでバス、電車に乗ろうが。あ、どこからどこまでじゃないな。まちなかを起点か終点か、どっかで乗ってまちなかで降りる。まちなかで乗ってどっかで降りる。ってことであれば100円で行けるという制度を発案をされました。一番遠いのは、猪谷とかあのへんからバスに乗ってくると片道1000円以上かかるんですけれど、それでも100円でこれるという制度です。まだこれは、平成16年、合併前の年ですから、当然、旧富山市しか使えません。で、これは聞いた話ですが、合併前の富山市内のばあちゃんと、旧婦中町に住んでおられるおばあちゃんが話をしてて、「あれ、あんた、こんないいが持っとるんけ。どっからでも100円で行けるがけ。いいねー」と言ったら、「いや、あんた駄目ながやちゃ。婦中町でちゃ使えんがやちゃ」という話をされて、そこでそのおばあちゃん、「あれ、そいがけ。なら、やっぱ富山市と合併せんなんね」と言われたと。本当かどうかわかりませんが、まぁそんな話も聞きました。もしかすると、「おでかけ定期券」が合併の切り札になっていったのかもしれないと思ってます。

 

カリスマ市長登場(2) 2005〜2011

平成17年4月1日、新富山市誕生(7市町村合併)
平成17年 グランドパーキング完成
平成18年 ライトレール開業
平成19年 グランドプラザ・総曲輪フェリオ竣工
平成21年 セントラム開業
平成22年 地場もん屋総本店 開店、シェア自転車(アヴィレ)運用開始
平成23年 角川介護予防センター竣工

平成17年4月、新富山市が誕生しました。この時に、また、森雅志さんは新富山市の市長になられて、合併前は3年余りでしたけれども、ここからまた新しい2期目というのか、新富山市としては1期目ですけど。この時は、もう、毎年毎年、テープカットが続く時代でして、17年にグランドパーキング、大和再開発の3点セットの一番最初のものです。これができて、その後、総曲輪フェリオまで2年間あるんですが、この2年間は大和さんの強い要望で、とにかく駐車場は1日でもいいから大和の移転開業よりも先にオープンさせてくれという強い要望がありました。で、それは、高岡で、この10年ぐらい前、富山より10年程先に、高岡で、御旅屋通りの再開発に大和さんが入っておられるんですが、その時に高岡市が整備しようとした駐車場が1年遅れになってしまった。その結果、大和さんが最初の1年間非常に高岡で苦労をして苦しい思いをして、結果、今はもう高岡の大和はなくなっちゃいましたけども、当時、そういう苦しいことがあったので、駐車場はとにかく、とにかく、先にオープンするというのが必須条件です、という話があり、17年にグランドパーキングは完成しました。ただ、私、当時は市民プラザにはいませんが、市民プラザの職員、社員に聞くと、2年早くオープンしちゃったんで、でも大和さんはまだ新しくなってませんから、駐車場が非常に苦しかったと。中で何しようかと思うくらいにガラガラな2年間だったというふうに言ってますが、17年にできたということです。平成18年にはいよいよライトレールが開業しました。市長が初めて富山市長になったのが平成14年ですから、たった4年間、計画を打ち出してからは3年間でできました。私は電車の方の仕事はあんまり関わってないんですが、これに関わってた職員から聞くと、とにかく3年間というのは、何の根拠もない3年間で、とにかく3年でやれっていうだけのことで、よくよく考えたらあんなもん、よくできたな、と、当時の担当者は言ってますが、本当にあれだけのことを3年間でやったのはすごいことだと思ってます。で、さらに、これがすごかったのは、富山駅と岩瀬をつないでるだけなんですが、富山市内の多くの人たちが一回なんかライトレールというもんができたんで、乗りに行ってみんまいけということで、たくさん乗りに行かれたそうです。で、乗りに行ってみて、これいいね、と。これはすごいいい事業だということで、市の全域の人たちがよかった、よかった、と。全然、それこそ、大沢野とか大山とか、あの地域からしたらまったくなんの恩恵もないんですが、その地域の人たちも含めて、みんなあれは素晴らしいと言って評価をしていただいたということもあります。たぶん、それは、今は岩瀬だけど、次はおらっちゃのとこにも電車引いてくれるんじゃないかという期待感もあったのかなと思いますけれども、まぁ非常に評判の高い事業でした。次の年に今度はグランドプラザが完成して、総曲輪フェリオが完成し、大和百貨店さんが移転をされました。これも非常に賑わってグランドプラザも日本の広場文化を変えたとまで評価をされてる場所ですので、当然、市民からも高い評価があって、こういうものがちょうどこの時期に市長の就任後、4年、5年ぐらいで次々と実際に形を表したんで、市民の人たちは、あの市長が就任された時に言ってた、コンパクトな街づくりというのはこういうことだったんだ、というふうに結びつけて、で、「おぉ、これはコンパクトな街づくりって素晴らしい」という評価にもなったんじゃないかというふうに思ってます。実際に、これ言っていいかどうかわかりませんが、森前市長も、「いや、あれはうまく市民の人たち、納得させたよね」とか言ってましたけど。まぁ非常に言ってすぐできたということが、非常に高い票数になったと、森前市長自身もやっぱりそんなふうに思ってた。さらには、一旦なくなった電車を復活して、セントラムとしてつなぐ、丸の内から西町までつなぐってことも、これも言い出したのは平成17、18年。この頃ですから、ライトレールが終わったら次はここだということで、これも3年ぐらいでつないでしまうという離れ業をやっておられます。で、この頃になると、最初の市長就任から、6年、7年、2期目の途中ですけれども、コンパクトな街づくりというのがだんだん浸透してきまして、いろんな部署、富山市の職員の中でも、まず、コンパクトな街づくりということが合言葉のようになってました。その象徴的なのが地場もん屋総本店です。総曲輪通りの真ん中に市内の野菜の直売所を作るという非常に場所としては珍しいことをやりました。普通、ああいう農産物直売所というのは少し郊外の、車でアクセスしやすくて、広い駐車場があって、道の駅みたいな、そういうところにあるのが普通なんですが、富山市の場合はなんであろうと、とにかく「まちなか」に作るんだということになってまして、そういうことから、地場もん屋総本店も「まちなか」に作る、一番賑やかなところに作るということが実現をしたというかできたわけでございます。それから、同じ年には、アヴィレという青い自転車の運用が始まりました。また、23年には、角川介護予防センター。これも、やっぱり、「まちなか」に作るべきだということで、旧星井町小学校跡で作るということで竣工しています。この年代は、先程言いましたように、いろんなものは「まちなか」で、というのが、市の中の合言葉になってて、で、各担当部局が予算要求する時に、自分たちはこういうことをやりたい。例えば、地場もん屋総本店で言うと、市の農林水産部としては、そういう直売所を市内のどこかに作りたい。だけじゃやっぱり駄目で、それによって農業の生産振興もするんだけど、同時に「まちなか」の賑わいも作り出すっていう、それがくっついてないと予算がつかないと。そんなような仕組みが、農林部だろうと、福祉だろうと、市民部だろうと、どこでもそういうことになってまして、こういうものが「まちなか」でするのが当然というような雰囲気になっておりました。

 

カリスマ市長登場(3) 2012〜

平成24年、OECDが世界のコンパクト先進5都市選定
メルボルン・バンクーバー・パリ・ポートランド・富山
市民の意識が変わり始める・・・
ロックフェラー財団 世界のレジリエンスシティ100選
JICA(国際協力機構) ニカラグアの首都マナグアの復興
世界銀行などなどから様々なアプローチ

そういうことをずっと続けておりますと、今度は、世界が注目し始める、という時代に入りました。平成24年に、OECDが世界のコンパクト先進5都市というものを選定して、本にして発表しています。その時選ばれたのが、メルボルン、バンクーバー、パリ、ポートラム、で、富山。ここのへんは、世界中の誰でも知ってる都市ですよね。何で富山なのか、と。きっと日本人だって、どっか東京の方とか行くと、「富山?鳥取の横でしょ?」とかって言われてた時代でしたら、ここに富山が入ってくるというのは非常に不思議というか、だけど、これは当時、国土交通省の強い推薦、後押しがあったとは聞いていますが、そういう中で選ばれたので、そうすると、市民の意識が変わり始めたと思っています。「いや、なんか知らんけど、OECDというところが、富山を先進都市だと言って選んだ。富山の街ちゃやっぱりすごいのかもしれない」というふうに勘違いを始めました。これはまさしく勘違いで、今でもそうですが、この時点で、富山がコンパクトな街になったわけじゃなくて、なろうとしてるだけで、なったわけじゃないんだけど、市民の人が変わり始めました。そうすると、他の世界のいろんな機関、ロックフェラー財団というところが、世界のレジリエンスシティ100選に富山を選んだ。だから、富山に1億円あげるちゃと言ってきました。お願いもしてないのに、ロックフェラーが富山市に1億円あげると、すごいことを言ってきたなと思ってたら、今度は、JICA国際協力機構が、ニカラグアの首都のマナグアの復興に富山市の職員を貸してくれと言ってきました。何の話か?今でも何の話かさっぱりわかりませんが。ニカラグアという国は中米の非常に危険な国。内乱が続いた国でして、危ない国なんですけども、内乱のせいで首都のマナグアはぼろぼろに壊滅的になってしまったと。富裕層はみんな郊外に逃げ出してしまって、街の中はスラム化してるんだけど、そこの復興のためにコンパクトシティの先進都市の富山に手伝って欲しいと言ってきました。当時の国から来ておられた副市長、この時はもう望月さんではなくて、神田さんという副市長がおられましたけども、神田さんに話をしたら、「それはだけど、ニカラグアの復興に富山市の職員が行ったって役に立つわけないだろう」と。おっしゃる通りそうなんです。役に立つわけないんです。で、「そうですよねー、行ったって。しかも危ないところですしね」と言ってお断りをしようとしたら、森市長は、「何言ってるんだよ。行かせろ」と。「役に立ちませんよ」と言ったら、「役に立とうが立たまいがそんなことはどうでもいいんだ。そういうところかも声のかかる富山市だということをPRすればいいんだ」とおっしゃいまして、「誰か行かせろ」と。ただ、危険な所なんで、「現職の管理職は行くなと。OBと若手職員を行かせろ」という指示がありまして、本当にOBと若手職員が行って、ニカラグアでライフルを持った警護の人をつけて1週間ぐらい行ってきたようですが、ま、当然、何の役にも立ってないと思ってます。そんなこともありました。さらには世界銀行から電話がかかってきたと。これも、市の本当の普通の職員の電話がなって、世界銀行ですと電話がかかってきたらしいんですけど。その話を私が聞いた時に、その頃、私は都市整備部の部長をしていて、もうそろそろ市役所を退職間際、退職近い時期だったんで、職員から「部長、世界銀行から電話かかってきましたよ」「え?俺の退職金でも貯金しろと言ってるのか」と冗談は言ってましたが。いろんなところからアプローチがある。一緒に協力して、なんか事業をやりましょう、みたいなことがかかってくる。そんなことになりました。OECDが選んでくれたおかげでいろんなところからアプローチがかかって、これを森前市長は非常にうまくマスコミに情報をリークして、「富山市、こんなすごいだ」「こんなすごいんだ」「こんなすごいんだ」と。「こんなところからも言われているんだ」と。いうふうに、実際にここから声がかかって、富山市に現実的なプラスって何だったんだろうかと。1億円は別にして、現実的なメリットがあったのかどうか、よくわからないところもありますが、世界が富山に注目してるということを市民の人たちにうまく知らせる材料になったということは間違いないというふうに思ってます。

 

カリスマ市長登場(4) 2015〜2020

平成27年(2015)、北陸新幹線開業 駅周辺の開発整備はまだ始まったばかり
平成27年(2015)、TOAYAMAキラリ竣工、大和再開発3点セット完了
平成30年(2018)、SDGs未来都市認定
令和2年(2020)、南北路面電車の接続。しかしコロナ・・

平成27年、北陸新幹線が開業しました。この時、当然ながら、交流人口は大幅に増加をしました。だけど、あえて、富山市は、観光客の誘致はこの時はしていません。隣の金沢市さんなんかは、かなり大掛かりな観光キャンペーンをやられたと記憶してますが、そこは富山市はやめておこうということになりました。どうせほっといたって、人は来るんだし、あまり一気に来てもらってもそれはかえってよくないだろうということを予想してて。そういう意味でやらなかったということです。で、当時、駅周辺の整備というのは始まったばかりでして、記憶にみなさんまだあるかと思いますが、北陸新幹線が開業した時には、富山駅の今の南側の広場もまだ工事真っ最中でした。お隣の金沢は、立派な鼓門なんかができて、ガラスの屋根がかかった駅前広場ができて、きれいにできあがってたんで、富山市は何やってんだと。ずいぶん、マスコミからお叱りを受けましたし、「何だこれ?」と言われたんですが、実は、そもそも北陸新幹線の開業というのも、いろんないきさつがある中で、なかなか着工できなくて、富山県の悲願だったものが、ある日突然、ポコっと始まったと。OKになったということでして、その時に、富山市は連続立体交差事業というものを始めようとしている時期で、その中に突然出てきたような新幹線のGOサインでしたから、間に合ってない。国の認可がもらえてないんで、整備できてなかったという状況です。一方の金沢はもともと、非常に整備が遅れてたところなんで、それを早々と国の認可をもらって整備してたから、新幹線開業の時には駅周辺はほぼできあがっていたと。全然事情が違うんですけれども。で、せっかく新幹線が来るのに、まだ駅前、舗装も終わってないということで言われて、私、ちょうどその時部長最後の年でしたけども、「いや、大変申し訳ないけど、新幹線で富山駅に来られる時は、是非、長靴でおこしください」というふうなことを言ってました。さらには、「いつまで工事やってるんだ、いつまでかかるんだ」ということもずいぶん言われまして、その時も、「いやいや、東京駅だって、横浜駅だって、元気な駅はみんなずーっと工事してるじゃないですか。だから、できあがった駅よりも、工事中が続いてる駅の方が元気な証拠なんです」というふうなことを開き直っていましたが、それでもなかなか許してもらえないような時代でもありました。で、新幹線開業に合わせて、TOYAMAキラリが竣工してます。隈研吾さん設計の非常に奇抜なデザインといいますか、非常に建物を見るために来る人たちがいるような、それができあがって、ガラス美術館と新図書館、第一銀行さんが入ったものができあがったということです。ここで、大和の再開発の3点セットが完了したということになります。で、さらには、平成30年にはSDGs、今は、富山市、コンパクトシティというよりは、SDGsという方が多いかもしれませんが、その認定を受けました。で、ご承知の通り、昨年の3月に南北の路面電車がつながるというところへやってきたわけでございます。で、しかし、南北接続と同時に、世界中にコロナが広がりまして、まだ今、こんな状況ですから、なかなかその効果が十分には見えてないところもありますけれども、南北つながって、地鉄さんが全部まとめて所有し、運行するという形態になりましたが、他のところの電車に比べると、やっぱり南北接続した効果というのは、明らかに出てると思いますし、もう少しコロナが落ち着けば、さらにいろんな人たちが電車を使って北へ行ったり、南へ行ったりということがおきるんじゃないかなというふうに思っています。

 

富山市のまちづくり30年を振り返って
コンパクトシティへの取組みはまだ20年

そろそろ、締めくくりに入りたいと思いますが、富山市のまちづくり、30年ぐらい、平成の初めの頃から今回は振り返ってみましたけども、今現在でも、まだコンパクトシティの取り組みというのは20年足らずです。で、かつて、高度成長の時代、だいたい昭和40年頃にみんな車を持ち始めて、どんどん、どんどん、郊外へ出て行ったという時期は、やっぱりそんな簡単に、何十年もかかって広がっていった街ですから、すぐに元に戻れるかと言ったらそういうわけはなくて、少しずつ少しずつ、そういう方向に向いていくんだろうなと思ってます。で、先程、OECDが富山を世界のモデルとしに選んだと言いましたけど、まさしくOECDは、現在の富山がコンパクトになってるからっていって選んだわけじゃなくて、富山がやろうとしていることが、途中過程として、世界のモデルになるんじゃないかというふうに評価をされてます。で、日本からちょうど10年、20年遅れて、中国ですとか、韓国の地方都市が少子高齢化を迎えようとしています。で、そうすると、日本の地方都市の富山で、一旦薄く広がってしまったスプロールした街がやり方によって、コンパクトな街に戻れたってことを今度、OECDは、中国とか韓国の地方都市でそのやり方が使えるんじゃないかということで、富山を材料と言ったら言い方悪いんですが、富山を選んでずっと追っかけて、調査をしてるということになります。で、とはいえ、とはいえというのは、富山はまだコンパクトになったわけではない。とはいえ、やっぱりこれだけの短期間で街が変わるということを世界中に示したというのは非常に大きな功績だと思ってます。で、その一番大きな要因は、やっぱり、LRTというもの、ライトレールとかセントラムとか非常に先進的な路面電車を入れたということですとか、グランドプラザという「まちなか」に広場を作って賑わいを作るという。本当なら、「まちなか」の一番高いところは、なんか物でも売って、床を作ってお店にすれば一番いいのかもしれないけど、あえてそこに広場を作ったということでそれが高く評価されてる、わかりやすい例だと思います。で、斬新なデザインとかガラスの屋根とかいうものが、街のアイコンといいますか、富山のシンボルになっているということでもあります。で、これも先程言いましたが、コンパクトシティというわかりにくい概念的なものをこういう目に見えるもので具現化をしたということも評価の対象、きっかけになったと思います。そのことは、いろんな、似たような課題を抱えている日本の都市、あるいは、韓国、中国の地方都市にもきっかけを与えることになってるんじゃないかなというふうに思ってます。で、このことは、今日はなんか、森市長を褒め称えることになりますが、もちろん市長だけの功績ではなくて、その間に富山市の職員が育ったということですとか、あるいは、市民の方たち、あるいは民間の事業者の人たち、みんなが共通認識を持って、コンパクトな街づくりというものを進めていこうと、いうことになったということだと思ってます。今日は高見前議員も出席されてますけども、もちろん議会も、いつも、コンパクトな街でやれということで、後押しをしていただいて、それが当局側の事業をやっていく者にとっても、非常にありがたい後押しとなって今日まできたというふうに思ってます。

 

新藤井市長に期待すること
富山県と富山市が手を握ることが出来る今がチャンス
松川・いたち川など水辺空間の賢い活用

4月から新しい藤井市長になられて、少し若返りまして、これから期待もまた膨らみますけども、森市長のすごさというのは、私は、こういうことだと思ってます。よく森前市長は、話をする時に、肌感覚とか、皮膚感覚という言葉を使われましたけど、結構直感的にいい、悪いを判断される人でした。で、その判断が、私が思う中では、だいたい合ってた。合ってないものももちろんあったと思いますけれど、だいたい合ってたと思います。で、即決するんで、すごく決断が早くて、しかも決めたことはブレないんです。たとえば、どっかの偉い方がやってきて、「いやいや、こんなことをしてくれないか」と言われたら、その内容が、コンパクトな街づくりから見たら、どうも方向がそれは違うなと思ったら、担当の課長とか、担当の部長が、「いや、何々さん、それはちょっと富山市の方向性と違うんで、できません」とお断りをするんです。で、かつてですと、ま、かつて誰の時代とは言いませんが、かつては、やっぱり市長に報告をして、どうしましょうかと聞いて、それはこうだろうと言われないと返答できなかったんですが、森市長の時は、だいたい市長が言われることはいつも同じなんで、予想がつくから、先に担当部長、課長が、駄目なことは駄目と断れるという状況になりました。そのことを森市長に話をすると、森市長も「ああ、わかったよ」と。「俺のところに言って来られても同じように答えるからそれでいいよ」と言っていただけるんで、そうすると余計なことをする必要がなくなる。非常に早く仕事が進むというのがありました。それから、森市長はセクショナリズム、なんか横の壁、垣根、縦割り制度、そういうものをどんどん壊して、誰でもやれそうなことはどこの部局がやってもいいぞとおっしゃって、ま、ま、とはいえ、そんなにできませんが、こういうことをOKと言われたんで、職員の意欲がすごく上がって、じゃあこれはうちの課では直接の担当ではないんだけど、だけど、こんなこともやってみようか、みたいなことができるようになったというふうに思ってます。さて、藤井市長さんに期待する。これは、どっちか言うと、私の個人的な期待になっちゃうかもしれませんが、富山の進化というのは、まだまだどんどん進んでいく。街づくりを深化して、コンパクトシティを進化すると言っておられたかな?深めるの深化と、進めるの進化と使い分けされてると思いますが、どんどん続いていく中で、実は、優秀な富山市職員、OBの私が言うのもおこがましいんですが、今の市の職員、若手の人たちは非常によく育ってます。それはいろんなことを勉強させていただく機会があったというおかげだと思いますが。われわれの時代から見ると、今の30代、40代の職員ってすごく優秀です。本当にいろんな勉強をしています。そういう意味では、その優秀な職員を十分に活用していただくというのがまずひとつだと思いますし。それから、LRTなどの公共交通では富山はもう世界レベルと言っていいところにあります。日本の中でおそらく自治体の職員の中で誰がLRTのことを一番よく知ってるかというと富山市の職員です。それはやっぱりライトレール、セントラムというものを実際に体験して、やってきた経験がありますから、非常に強い、そういうものを持ってます。それから、再開発事業も、実は、富山はあちこちで次々と再開発事業をやってきましたが、これも非常に稀なことです。失礼な言い方をすると、富山県内で、再開発事業をできるのは、もはや富山市しかありません。仕組みが非常に難しい事業なもので、どこの都市でもやろうとしたら、コンサルに丸投げして、コンサルの言いなりになってやるしかありません。そういうところは大抵失敗します。で、そういう意味では、富山市は再開発という非常に有利だけど難しい仕組みを継続してノウハウを持ってますので、「まちなか」を建て替えるということでは、富山市では比較的やりやすい。他の街ではなかなか難しいということがあります。それから、ここはみなさんよくご存知の通り、前知事と前市長は、特に後半は非常に難しい関係にありました。中の下にいる職員も大変でしたけども。なかなか、片方が右と言えば、片方が左と言われるようなことで、難しいこともあったんですが、今はここが手を握ることができるようになりましたから、そういう意味では非常にチャンスだと思ってます。で、こういうことができる時、まさしく新しい知事、新しい市長を迎えて、今だからこそできることっていうのは、こういうことなのかなと思ってます。ひとつは、市民とか企業とか、そういう人たちを巻き込んで、ちゃんとやっていくということが大事だと思います。これまでの富山市の街づくりはどちらかと言うと、行政が先頭に立って引っ張って、市役所主導の街づくり。民間の方が、変な言い方すると、民間の方が「こんなことをやったらどうか」と言っても、あんまり聞く耳をもたないような、そんなところもあったというふうに思ってます。これからはそうではなくて、民の力を出して、民の構想、アイデアというものをうまく生かしていくということが必要だろうと思ってます。もはや、行政主導だけでやれる時代ではない。これは、お金のことを考えても、地方自治体の財政というのはどんどんどんどん厳しくなってきます。で、そういう中で、いや、おらっちゃ役所は金持ってるんだから、民間のことなんか別に言われんだったおらっちゃ勝手にやるわ、という時代はもうとっくに終わってますので、そういうことも含めて、民間が力を出すべきだと思ってます。今日は「富山市の街づくりと松川」というタイトルだったですが、松川は最初と最後しか出てきませんでしたけども、松川、いたち川、こういうところをうまく使うっていうのは、まさしくこれからの時代に非常に重要だし、県と市が握手できる今だからこそ、ようやく中村さんの長年の夢ができるかもしれない、という時代になったと思ってます。中村さんとはずいぶん前から、いつも、松川、なんかならんかねーという話をずーっとしてきましたけども、なかなか、誰が止めてるわけじゃないんだけど、なんとなく、止まってしまうという不思議なことになってまして、それはやっぱり、前の知事と前の市長の関係というのも大きく影響してたんだろうと思いますので、それが外れた今というのは非常に重要な時期だろうなと思ってます。私よりみなさんがご存知だと思いますが、松川、いたち川というのは、「まちなか」にあって、いい感覚、スケール感の川っていうのは、なかなか、他の街にはない財産だと思ってます。で、そういうものを持ってる街というのは、やっぱりそれをちゃんと生かして、街の中にうまく取り込んでそれが市民の憩いの場にもなるし、あるいは、観光客なんかの観光スポットになる、という使い方をしている。富山はそれをしてないのは、非常にいい財産を持っていながら、それを生かしきれてない、というのは、非常に残念だと思ってまして、この街の価値というものにもう1回目を向けて、あれをうまく生かして、非常に自然が豊かで、水が流れて、いい街だね、と言ってもらえる、非常にいいものになると思いますので、是非みなさんのお力を総動員して、ここにスポットに当てる、それを知事とか市長に、県、市に応援していただいてやる、というのが、両方、知事、市長にとっても、たぶん、新しい発想の新しい事業になると思いますし、非常にいいことになると思ってます。どっちにしても、あんまり長々やると、やっぱり駄目なんで、さっきのライトレールじゃありませんが、知事とか市長に、よし、今度じゃあ、松川、ちゃんと県と市で、一緒になってきれいにしよう、ということを言っていただいて、3年、4年で、「わ、すごくきれいになりましね」というものができればいいなというふうに思ってます。ちょうど私の話もつたない話ですけれども、30年間の街づくりの思い出を話させていただきました。どうもご静聴ありがとうございました。

 

【質疑応答】

質問者 京田さんがこれまで富山市の中心部のグランドプラザですとか、大和、フェリオ、それからキラリ、そういったところの再整備をずっと見てきておられた中で、これからの松川べり、特に、これまでもいろいろ計画があがっている旧富山市の図書館跡地、ここがどういったものがふさわしいのかな、とか、今の市民プラザの方でもいろんな取り組みをされていて、そういった中からどのように感じておられるのかなということをお聞かせいただけるとありがたいかなと思います。

京田 城址公園含めた松川ですが、私はあんまり箱もの、特に、大きなものは必要ないと思ってまして。まずは、やっぱり、きれいにするっていうことかなと思ってます。で、そのきれいにするっていうのも、抽象的ですが、例えば川を整備しようとすると、河川がやると、やっぱり護岸をしっかり作って洪水にならないようにして、ということになるんで、まっすぐ川をコンクリートで固めて作るという方向に行きがちなんですが、そうではなくて、少し庭園みたいな要素も入れながら川を作っていく。単調にならずに作っていくというのが非常に大事かなと思ってます。中村さんよく言っておられるサンアントニオなんかも、まさしく、歩けば少しずつ景色が変わっていくというところに楽しみがあるんで、そういう街というか、水辺の作り方というのが非常に大事だと思ってます。国の方は、そういうことに非常に力を入れてて、水辺を活用した街づくりが進んでいますが、残念ながら富山県内、富山市内では今までそういうことができてこなかったんで、そこを意識して、川を生かした水辺のにぎわい、きれいな景観。質の高い管理というのが大事だと思ってまして、完全に行政、例えば、富山市で川沿いは、松川公園という形で指定されていますが、行政がそれを管理しようとすると、やっぱりどっかのところだけ特別に手厚い管理をするわけにはいかなくて、全体に予算の厳しい中で、最低限のことしかできなくなっちゃうんですけど、そこにやっぱり民間の力も入れながら、「まちなか」のああいうところはグレードの高い管理、気持ちのいい空間を作るというのが一番大事かなと思います。そうすると、自然にそこに両側に魅力的な民間のお店なんかも出てくる、張り付いてくると思ってまして、そういうものを先に作るんじゃなくて、やっぱり川全体をちゃんと整備をして、きれいな空間として管理して保つというのが行政としての役割はそうかなと思ってます。

 

(文字起こし&文責:事務局〈月刊グッドラックとやま編集部〉中村青児)