第4回総会 浅岡節夫会長の代理で中村孝一理事長があいさつ(2021年5月16日)
“水の都とやま”推進協議会 第4回総会(2021年5月16日(日))
浅岡節夫会長の代理で中村孝一理事長があいさつ
みなさん、こんにちは。浅岡会長の方から、ちょっと体調がすぐれないので、中村君に代わりをお願いしますと。こういうことでした。それで、浅岡先生は、本当に水辺が好きな方で、「自宅の裏庭に小さな池を作って、いつも水が見れるようにしてるんですよ」と言われるくらいの方でして。協議会を立ち上げる際に相談させて頂いたんですが、もともとずっとさかのぼると、2003年に富山が誕生した大きなきっかけである、神通川の直線化工事ですね、「馳越(はせこし)工事」と命名してたんですが、馳越工事が完成して、ちょうど100年目の節目に当たるということで、県とも相談しましたところ、何かイベント、100年祭のイベントをやってもらえないか、と。これは、現在の富山市が誕生する大きな節目でしたので、県も支援するからということで。もちろん、国が一番支援してくれたんですけどね。富山市も参加しまして。全国規模の、川にまつわる、テーマが「川と街づくり」というテーマで大きな節目を祝ったと言いますかね。その時の委員長に、浅岡先生にお願いしていたこともありまして、この協議会を立ち上げる際に、浅岡先生に会長を引き受けていただいた、という経緯がございます。
今日は、先生の意志をくみまして、こちらに表示されてますけども、『「月刊グッドラック」による松川を活かした”水の都・とやま”再生への挑戦』というタイトルで、短いですけどもこれまでの経緯を紹介させていただきたいと思います。
ヘドロに覆われた松川
みなさまもご存知のように、富山は、神通川を外堀に、富山城が築かれたところから城下町が誕生して、今日の富山市が発展してくるんですけれども、その後、富山市の中心を神通川の流れを残すように松川が流れているわけですね。神通川時代は富山城から現在の富山港まで、帆船が行き交ってたんですね。そういう時代から江戸時代に入って、明治。明治が写真が映ってますけど、何百隻の帆船が映っている写真が残っていますけど。最大の当時、通商路、今でいう高速道路に当たる役割を果たしていたと思いますけども。それで富山市は「水の都」と呼ばれるようになったわけですね。ところがですね、1970年代になりますと、松川はこのように水がほとんど流れてなくて、ドブに覆われてまさに死に瀕していたわけですね。これが松川です。これは安住橋の方なんですけどね。このような状態。経済優先に入ってましたから、1970年代になると、経済界の方から、この松川にコンクリートで蓋をして、その上を駐車場にしたらどうか、という、そんなおそろしない提案がありまして。これがまさに実現しそうになったんです。大論争が起きました。私、当時の商工会議所の専務さんから、直接その時のすごいことになっていた話を聞いて、ぞっとしました。もうちょとで実現するところだったんですよとその専務さんは言われましたからね。えー!そんな状態だったんだということで。私たちは神通川だった松川からこの富山市は誕生しているわけですから、これをコンクリートで蓋をしちゃって駐車場にしちゃったら、富山の歴史はなくなってしまいますね。私たちの根っこのところがなくなってしまう。おそろしないことが起きようとしてたんですね。「川はそこに住む人の心を映し出す」というのが、その時感じたことでした。荒れた松川を美しくするには、人々をやっぱり美しく、これが一番大事だ。
グッドラック創刊
ということで、それには何が必要か?月刊誌が一番有効じゃないか、と自分の経験から感じました。それで、1977年に月刊グッドラックを創刊いたしました。これが、その時創刊したグッドラックマガジンですね。表紙には、朝日が昇る夜明けの海に船出するグッドラック丸がこのように描かれて。私、ケネディ大統領を尊敬していたものですから、ケネディの有名な講演の一節から、小さく書かれていますが、”水平線のかなたには、あらしがあることを知っている……しかし、われわれは恐れをあとに希望をもってカジをとってゆく”というこの明言を刻みました。そして、市民の意識を探るために、座談会を開催いたしました。すると、「友達が遊びにきても、連れて行くところがない」との悲痛な叫びがあったんですね。そこで、中心部に市民が誇れる観光名所を作れないか。ということで、いろいろ考えた結果、やはり、富山の歴史、文化、伝統、そういったものが反映できるものでないと、新しいものでは駄目だということで、県や市、富山県を代表する企業の方々に協力をいただいて、松川に遊覧船がスタートすることになったんですね。ところが、初めの頃は、富山県の河川課が大反対しまして。治水しか頭がありませんので、「前例がない!そんなことは許可できない!」ということで、猛反対されたんですね。出航を危ぶまれたわけですけども、なんとかいろいろ、何度も何度も協議を重ねた結果、やっと船出をすることができまして、今年で早いもので35年になるわけですね。
水辺というのは活かし方次第では絵になるわけですね。私たちの心を非常に育ててくれる、風情とか情緒とか、そういう心を育む、そういう要素を持っているわけですけども。そういう松川の本来のあるべき姿に、遊覧船が行き交うことで、遊覧船が行き交うと、当然きれいにしなければなりませんので、毎年、松川が先ほどのあんな状態から、この状態から、このようにきれいに変わって来たわけですね。そして、イベントができるように、川べりになんとか、川の劇場。リバー劇場と言ってますが、そういうのを土手のところに作れないか。これも、県と何度も協議を重ねた結果、10何年かかかりましたね。12、13年かかったと思いますが、担当者がだいたい2年で変わりますので、その都度、担当者と激論を交わしまして、どうしても理解してもらえないと思ったら、2年間待つ。2年後には新しい担当者が来る。ということで、これを繰り返して、10数年後にこのリバー劇場が完成しました。そうしていくうちに、だんだん市民の意識も高まっていきまして。
遊覧船が浅瀬に乗り上げないように浚渫
ところが、運航を進めるうちに、乗客を乗せた遊覧船が、浅瀬に乗り上げるんですね、川が浅いですから。動けなくなるんです。そういうハプニングがたびたび起こります。全国から観光客が来ています。東京からも来ています。浅瀬に乗り上げた船なんて惨めですよね。船長さんも、笹舟ですから船頭さんと言った方がいいでしょうけど。竿を操るんですけど、恥ずかしい思いで船から降りて、後ろから船を脱出させて、また船に乗ってこぐという、そういう状態でした。それで、県に「浚渫してください。もちろん、船が運航しやすくなるためもありますが、川そのものがきれいになれば、市民や県民、観光客が喜ぶんじゃないですか」ということでお願いするんですが、「県内には350河川もあるんだ。松川だけきれいにできない」ということで、また議論ですね。これでは駄目だと。県には頼れない。ということで、船頭さん10人ぐらいに呼びかけて。神通川で漁をしている船頭さん。気が荒い、そういう方々も多い。それをうまくお願いして、そして、一緒に川に入って、浚渫して、どんどん深くしていきました。そしたら、県も、なんか、松川の遊覧船さんに管理を取られたように錯覚されたのか、当時の変わって来られた課長が、「申し訳なかった。本当は県がやらんにゃあかんことを民間にこんなことをやらせて申し訳なかった」と言って、なんと翌年、予算をとって、ブルドーザーを入れてくれたんですね。ブルドーザーでやれば、それは速いです。そして、松川はみるみるきれいになっていったわけですね。
1992年、松川茶屋完成
そして、遊覧船のりばに駅舎が必要だということで、松川茶屋、これを市の方にお願いしてたんですが、これも5年がかりで、ようやく完成しました。
「川と街づくり国際フォーラム」開催とリバー劇場でのイベント
こうして、少しずつ、観光客が来ても恥ずかしくない街、「友達が来ても連れていくところがない」と言ってた、この街が少しずつ、少しずつ、よくなっていきました。さらに2003年には、神通川直線化100周年を記念して、国土交通省などの後援もいただいて、「川と街づくり国際フォーラム」を開催しました。この時、松川と同じような、川を活かし、全米ナンバー1の人気都市に輝いた、サンアントニオ市からも、1985年に姉妹都市の申し込みをいただいていた縁を活かして、サンアントニオ市の公園管理者をお招きしまして、こちらで基調講演を開催させていただきました。そして、これに合わせて松川では、リバーフェスティバルを開催。こういう、パンフレットとかグッドラックの表紙を飾ってますけどね。こうしたとてもヘドロで臭くて近づけなかった松川だとは思えないような美しい松川に変わってそこを、このように美しい方々が、リバークイーンと言ってましたけどね、アメリカではリバークイーンと言うそうですが、川の女王様がパレードされて。これは全国のイベントですので、「リバーフェスタinとやま」というのは、国土交通省が後援してまして、全国から国際会議場に集まったフォーラムに参加された、そういう大きなイベントでした。水辺の新しい活用策として、大変話題となったものです。
2005年4月、松川茶屋カフェテラス完成
さらに、2005年4月には、松川茶屋の川べりに、階段式のカフェテラスが完成いたしました。これですね。これはね、なんと、こちら側の土手のような状況がここにあったんですね。こちらが松川茶屋ですけど。この松川茶屋と松川の間の土手を活かして、ちょっと階段、1段2段の、そういうユニークなカフェテラスを誕生させたわけですが。実は、こちら、サンアントニオ。こちらもやはり階段式なったますね。川に向かって降りていきます。水辺に近づけます。これは夜の世界です。これを参考に、なんと日本の富山の松川のここに同じものを作ったわけです。これも県に何度もお願いして。やはり5年ぐらいかかりましたかね。やっと担当者が納得して。「あんたがそんなに言うんなら、やってみるか」とやられたら、ものすごい評判になったそうです。担当者が喜んでおられました。
2016年、地元の新聞のフォトコンテストで「一席」に
これは地元の新聞となってますが、北日本新聞社様が、読者からのフォトコンテストの1席に輝いた写真ということで、大きく取り上げてくれまして。ここに、写真部長の佐藤様の感想がここに、評価が書かれてますけど、「一席 春の喜びが凝縮」ということで、「遊覧船乗り場は長蛇の列!」と書かれていますが。非常にこの時の様子を上手に。部長様はこの光景を初めて見られたらしくて、とても驚いておられるような文章が書かれています。かつて、ヘドロで臭くて近寄れなかった松川が、こんな美しい水面になってます。この水を確保するために、下流に堰を、いたち川との合流点に堰を設けたり、ずっと上流の土川というところから、水の足りない時は水を取り入れたり。この松川の美しさを作り出すために、大変な努力が払われているわけですね。
2017年5月、”水の都とやま”推進協議会発足
最後になりますけど、ちょうど40年。グッドラックを創刊して、40年目に、2017年ですね。の5月に、私たちが今年で4回目、昨年できなかったために、本当は5回目なんですけど、この”水の都とやま”推進協議会を発足させることができました。そして、水の都とやまの魅力を全国に発信するということに取り組んでいます。松川を核に街づくりを進めると、そういう気持ちを持った同志が参加されたわけですね。そして、話し合いを続けています。今日は田畑代議士の代理で秘書が見えておられますけども、2003年の先ほど言いました「川と街づくり国際フォーラム」のイベントに合わせて、アメリカのサンアントニオを視察する企画も行ないまして、田畑代議士は当時、富山市会議員でしたけども、誘ったところ、「是非見たい」ということで。当時、市会議員が11名、県会議員が5名、県の土木部長だった方、それから、河川課長だった方が一緒に、全部で19名参加しております。それが、ほとんど裾野が広がって行く原因になったわけですけど、先ほど理事会でちらっと言いましたけど、市長と知事があまり関係がよくなかったこともありまして。市長も実は2007年だったと思いますが、市の部長クラスを10名引き連れて、サンアントニオを視察されて、「中村さん、いよいよ、松川の環境整備やるぞ」ということで、やる方向で進んでたんですが、その後、ちょっとお二人の関係がよくなくなっていったことが、まぁどのように禍となったのか、ちょっとそのプロジェクトは進行がそこで止まっちゃったんですね。そのおかげで、私たちは、「じゃあ民間がもう一度がんばってやるぞ」ということで、この協議会を立ち上げれたということでもあるんですよね。実は、市が委員会を作って、何度も協議を重ねたんです、当時。それが、ま、仲がよければ、市長がそれを実行していたら、協議会を作る必要もなくなるし、今日、私達がここでお話する機会もなかったわけです。だから、市長に「ありがとう」ということなんですね。知事にも「ありがとう」という(笑)。お二人の関係がよくなかったことで、そのプロジェクトがストップしちゃったわけです。ただ、「サンアントニオで見て来てください」と言ってた、松川の水質を改善するための、下水道が松川に実は入ってたんですね。下水道が入らなくするために、サンアントニオは地下に巨大なトンネルを作って、そして、このトンネルの中に一旦、大雨が降った時の下水と混じった水が松川へ以前は流れてたわけですけども、これを一旦、貯留管というね、大きなトンネル。私たちがいるこの部屋、この大きさよりもまだ一回り大きい。直径5mから5m50の、そんな巨大なトンネルを、実は、旧市立図書館から掘っていきまして、平和通りへ。で、西町へ。1.1キロ程の巨大なトンネルが15m程の地下に作りました。6年半かかりました。これを作るために、なんと、国のもちろん助成もあったんだけど、最終的に70億円かかったそうです。これによって、松川へは汚い水が一切、入らなくなりました。下水が入らなくなった。そういう、で、地方都市でこういうことをやってるところあるかと言うと、ありません。いわゆる大都会、東京なんかは洪水対策もあってやってますけど。地方都市ではこれだけの予算かけれませんから。これによって、松川は本当に、神通川の名前のとおり、神様が通られる川ですよね。神通川。神様が通られる川。その流れを残す松川が清い川に変わったわけですね。そして、いろんなイベントが、先ほどのリバー劇場もあれば、松川茶屋の中まで。明治時代、滝廉太郎が富山で育った街です。音楽の、本来は音楽の街であるべきなんですね。ですから、水と音楽の都を目指していくと。いうことで、グッドラックも取り組んでいますけども。そういう感じで、浅岡会長は、私に、「中村さん、情熱が一番大事だよ。私に代わって、私の情熱を今日の総会で熱く語ってくれよ」と言われまして。熱く語れたかどうかちょっとあれですけど、私の会長のあいさつの代理とさせて頂きます。どうもありがとうございました。