第3回総会 第2部 記念講演 「サンアントニオの想い出」今井清隆氏(2019年5月12日)

“水の都とやま”推進協議会 第3回総会(2019年5月12日(日))

第2部 記念講演 15:00〜15:50
「サンアントニオの想い出」
今井清隆氏
(元・富山県河川課長、元・立山カルデラ砂防博物館長)

みなさん、こんにちは。先ほどご紹介いただきました、今井と申します。私、サンアントニオへ行きましたのは、2003年、平成15年の11月でした。今日はそのことを話を、はじめはそのことを。ちょっと時間が1時間ほどあるので、「よく考えてみると、行って来た想い出もわかるけども、富山とのどういう結びつきがあるのか」ということも、踏み込んで考えてみたいな、ということで、今日、お話をさせて頂きます。浅岡会長さんのお話とか、だいぶちょっと、私の思いを先に言われた。やっぱり思いは同じなんですね。そういう意味でちょっと、後半は私の思いというか、ひいては、松川のことをお話させていただく、というふうに考えております。
(拍手)
書いてきましたので、さーっといきます。今ほど言いましたように、2003年に行って来ました、と。富山市の観光振興議員連盟というところが旗振られたんですね。あの時は松本会長さんだったですね。おやめになられましたけど。川を生かした街づくりで成功しているサンアントニオの行政視察。県会議員とか市会議員の参加は、行政視察です。そこに私ももぐりこんだんですね。中村(孝一理事長)さんから誘われて。ちょっと私ね、先生方の中に入ってもいかがかな、と。行政視察の中に、私みたい民間人が行っていいかなーという思いで。だいたい、私、もともと厚かましいもんだから、「はい、わかりました。行きます」と言った。よく考えてみると、後から思ったんですよ。どうも、参加人数に2、3人、余裕があったみたいですね。ということが後からわかって…いや、もし違ってたらごめんなさいね(笑)。しかし、ま、行かせてもらった、ということですね。そしてね、(市議会)議員さん11名の中にね、現在、(市議会)議員されてる方、調べてみましたらね、今、衆議員しておられます田畑さん、市議会議員の時に行かれました。そして、県議会議員では中川さん。現在、現役は、中川さんと五十嵐さんと杉本さんが行かれました。それから、市議会議員は11名おられますが、おやめになった方がおられまして、現在、現役で活躍しておられるのは、村上さんと、鋪田さん、この2人でした。そういうことです。
私が行きました動機というのは、中村さんから、お誘いあったということもあるんですが、実際の動機は、格好良く言えば、こういうことですね。神通川馳越線工事の100周年記念というのがありましてね。「川と街づくり国際フォーラム」(2003年)というのがありましたね。みなさんも行かれたことがあると思います。国際会議場でありました。あの時、私、このサンアントニオ市の公園管理者である、リチャード・ハードさんの基調講演に非常に感銘を受けたんですよ。その後も、中村さんといろいろとお話する機会がありまして、そういうこともあって、行かせてもらった、というのが。サンアントニオ市の図面ですね。まず行きますのは、行く時はね、成田から17時間かかるんですよ。一発で行くんじゃなくて、これは飛行機のつもりです、ヒューストンへ行きます。ヒューストンから、1時間かかって、サンアントニオ市。こういうことです。ちょっと余談ですが、だいたい私の話、余談ながです。顔も余談みたい顔しとるけどね(笑)。ヒューストン行きましたら、その日ちょうど、運悪くというかどういうかね、ケネディさんが暗殺されて40年やらの記念の日だったんですね。ダラス、ここで暗殺されましたね。警護がひどくてね。なんか、チェックされるのに1時間ほどかかって。次の乗り継ぎにもう少しで乗り遅れかかったんですね。そういう思い出があります。ヒューストン行ったらなんと恐ろしい。プロレスみたいような警察官が、全部、犯人扱い。全然日本と違います。日本はやさしいですね。ありがたいことです。サンアントニオというのは、メキシコ湾の影響を受けて、春と秋、大雨降るところなんですよ。だいたい、むこうは砂漠地帯があるんですけど、したがって、これから話出ます、大洪水というのはこれが影響しとる。これがリバーウォークの、リバーウォークは、日本語で言うたら、「水辺の散歩道」なんですよ。これ。これ鳥瞰図ですね。これはまず一口で言えば、「緑の景観と治水を調和させた街」ということが言えると思います。これは、この街づくりは、これから話しますけども、「世界の都市づくりの模範」なんです。と言われています。これリバーウォークの平面図をわかりやすくしたもの。もともと、川が、こう流れていた。これが、大洪水によって氾濫して、このへんが大洪水になった。それで、最終的には、水門を作ったりして、この水位を安定させて、舟運をやるんですけども。この周辺はホテル街、レストラン街ですね。そして、リバー劇場があります。で、このリバーウォークの横に、こういった運河を作ったんですね。コンベンションセンターとかいろいろあります。こういった水辺のリバーウォークの横に「アラモの砦」があるんですよ。これがね、客を呼んでいるんですよ。一体としてやっている。富山はこれがなかった、という話をあとからしたいんですよね。私、実は、行ったのは、これ見たかったんですよ、アラモの砦。リバーウォークの歴史、簡単にいきますね。だいたい100年程前にね、集中豪雨で、サンアントニオは被災してます。死者50人。市街地は壊滅してます。写真見てたら。で、湾曲のところをなんとしなきゃならん、言うて、計画、大論争が起こってます。そして、バイパス水路とか、水位の調整ダムとか、いろいろ修景計画を立てられますね。で、50年前(1968年に)世界万博というのをやりまして、それを契機に発展するんですね。この時には、ホテルとか商店街がだいたい完成します。遊覧船が就航したのは、47年前から。1972年。これはやっぱりね、水位の調節、水位を一定にする調節ダムというのが作られたんですね。それによって安定して運航できる。こういうことで発展した経緯があります。これはリバーウォークがにぎわう様子ですね。これはパンフレットからとったものです。ここで言いたいのは、格好良くリバーウォークの横にレストラン街ありますね。あんまりいいもの食べとらんがね、みんなね。日本人がなんか高いものを食べるけどね。なんか飲んでる時、スナックの、日本で言えば安い棒菓子みたい。しかし、数多くあって、にぎわってる。私ら、なんと金もっとるんかな、と思ったらそうじゃない。金の使い方がうまい。と思いました。これは、リバーウォークの断面図。みなさん、これよく見られたから説明省きますが、道路面からだいたい4.5mから7m。ここからはパンフレットですね。だいたい5m程下がってると。下がってるから、道路上の上の方の市街地の喧噪が聞こえない。というのが味噌ですね。これはね、リバーウォーク。これはね、透き通った水でない。美しいんです、景観がね。ここ散策。ここはね、ゴミが見つからんがです。後から出ますけどね、管理がきちっとしてますね。透き通った水ではないが。ゴミが浮いてないから美しい。まさにその通り。先ほど、浅岡会長さんが、松川ちょっと汚い、と。ここから見れば、全然きれいです。しかし、それでいいというものではないですけど。事実を申し上げてる。しかし、これでも、にごっていてもきれいだということは、他がいいからですよね。これ、朝の散歩の風景。私撮ったんですよね。朝行くと、外人が。私も行きました。すれ違う時に、だまって行かない。「エクスキューズ・ミー」とか、「グッドモーニング」とか。私、しゃべれんかった。英語知らんから。でも、だんだん、しゃべれるようになるんですね。そうしないと、なんか、だまっていくと、怒ってるみたいから。ということから、二言だけかけました。ここがきれいなのはね、この面から10㎝か20㎝下がってるからきれいなんです。これがぐっと下がり過ぎると、あまり…。ちょっと下がった方がきれいですね。しかし、これがあまり上あがると、船が通ると、しぶきがあがるからね。ここは、きれいですね。リバーウォークのところに巨木がある。こういったのが、随所にあるんです。ここに写ってませんが、リスもおる、リスが。いやぁ、びっくりしましたね。それほど、自然と一体となって商店街がある。ということですよね。これがね、遊覧船の船長さん。言いたいのはね、船長さんは非常に愛想がいいですよ。いや、そうかと言って松川が悪いわけではないですよ(笑)。非常にいいですよ。むこうは、ラテン系の人なんです。陽気なんです。いつもニコニコしてる。怒った顔しとったら、こんな身体でかいから、怒った顔するね。しかし、ニコニコしてるから、近寄っていきたくなるような方でした。これは早朝のリバーウォーク。ここで言いたかったのは、清掃する船がおるんです。朝早くやるだけ。日中はおりません。40隻程いるんですね。朝、バーッと掃除して、見えなくなる。ビルの中に格納庫みたい、そこに入ってる。そういう点、きちっと管理してましたね。これはびっくりしました。これはメンテナンス船を使って、散水してる。メンテナンス船は掃除するだけでなくて、日中はね、散水をするんです。周り中、木がありますから。雨が降る、春とか秋はいいですけど、夏はやっぱりね。散水をする。これは移動中のメンテナンス船。作業は早朝。これが、出していいかちょっと迷ったんですが、行って来たことの証として1枚。遊覧船が視察。これ見たら、知った人おられますね。田畑さんです。怒られるかな。これは杉本さん。中川さんですね。あとはいろいろあってやめますが。これは松本さんかな。こういうことで、船に乗って視察される。これは朝食の様子。これは中村(孝一理事長)さんですね。これは杉本さん。私、ここにおったんですが。私、写真を撮るために。何を食べとるか、証拠物件として。あまり、いいもの出てませんね。真面目に行って来とる。別に豪遊はしとりません。私は私費ですから。関係ないか(笑)。ごめんね。これは湧水を利用した池。先ほど春と秋には雨が降ると。ここは橋の下なんですよ。地下水が高いもんだから、湧水があるんです。地下水の豊富なところなんです。裏返せば、このサンアントニオは昔から原住民がいたんです。ということになってる、歴史を読んだら。その後からメキシコ入ったり、いろいろ歴史ありますけど。こういう水が豊富だから、地下水が豊富だから、人もおった、と。その証ですね。その証で、私、湧水を撮ってきたんですね。トンネルの水を、先ほど、地下トンネル。地下に入った水を汲み上げて、回すんですね。水を循環させるんですよ、汲み上げて。ご覧のとおり、あんまりきれいじゃないでしょ?ね。しかし、きれいにするために、水をかき回さないと酸素がなくなるから、こういった工夫をしておられますね。水を循環させている。ここにあえて書きましたが、川水は松川の方がきれいです。しかし、物(ゴミ)があるのが、ここはない。松川はありますね。これは直さないとね。次、水位調節ダム。水路の水位を保たなきゃいけない。こういったダムが上下流にあるんですよ。これでもって、安心して水運が、船を動けると。これが、水門のところで、リチャード・ハードさんの説明を聞いてる。写ってないけど。これは村上さんかな。全部議員さん。この説明を聞いて、あー、なんかわかったような気がしました。もう忘れましたけどね。こういったことで、真面目にやってきました。これはアラモの砦。先ほど言いました。私、これから言いたいのは、これから本番なんですね。ああいった、水辺のところを浮かび上がらせる時は、セットで、こういった観光地というものを大事にしたいな、と思いました。ここは、アラモの砦。これは、テキサスから独立戦争のために激戦地となったアラモの砦なんですね。このアラモの砦というのは、やっぱり、アメリカの開拓史の一角を垣間見ることができます。これは歴史的な遺産ということになっておりまして、ま、大勢の観光客が必ずここへ行きます。この時の話、調べてみましたら、テキサス人がメキシコ政府に反感をもって、独立戦争をやった、と。その際に、4000人のメキシコ軍に対して、189名の義勇軍が戦ったんですね。勝てるわけない。でも、彼らは全滅をする。しかし、その後、しばらくしてから、アメリカが奪還しましたけどね。もともと教会なんですね。ここで言いたいのはね、私、こういうの好きなんですが、このアラモの砦のことを言うた映画「アラモ」の舞台なんですね。ジョン・ウェインが。ジョン・ウェイン、知っておられますね?私、古いからジョン・ウェインが好き。ジョン・ウェインというのは、アメリカの大スター。この方が初めて監督、初めて主演なんです。ここで言いたいのは、この施設を管理しているのは、義勇軍の189名の子孫がやってる、子孫が。管理は県じゃない、市じゃない。たくさん来ますから収入多いですよ。そういうことでちゃんと道を開いているというのが、私は聞いて、そうかなー、やっぱり進んでるなーと思いました。これがアラモの砦の城壁ですね。私思いましたのは、こういった歴史的遺産というのはね、観光客を引きつけますよ。これがアラモの通りの風景です。ご覧の通り、スペイン統治時代の文化が残っております。マルチカルチャーの街。18世紀の遺物と、現在がマッチしても別に違和感を感じないんですよ。そこが不思議。きれいな街でしたね。こういった街も、古いものをどう、現在に調和させることが人を引きつけるんですね。今、サンアントニオの想い出、ということで、まとめますと、3つあるかと思います。私はね、ロマンを実現した街だと。それから、災いを福に転じた街。災いというのは大災害ね。それをもとにして計画を作った。そして、もう一つは、これからお話しますけども、史跡と共に共生した街。こういうことを感じました、強く。今日はサンアントニオの想い出はここだけを言いたくて。私、今日、お話したかったことはこれなんですね。県都・水の富山はどうなんだ、ということを考えてみたいな、と。松川舟運、そういう観光船うんぬんでなくて、もうちょっと広い意味で見てみたいなということでここからお話させて頂きたいなと思います。そんなこと知っとるわーと言われても、ちょっと聞き流して下さい。歴史的なことで古いかもしれませんけどね。題して、松川の歴史をたどる。これは見慣れた風景ですね。これをたどってみようか、と。
先ほども、会長さんのお話の中で、馳越線、松川の昔の話もされましたけど、これが、馳越以前のよく出る図面であります。これが神通川。ここは城址公園。現在のお城のところ。このへんは、橋北。ここに神社がある。この図面はここから引っ張った。神通川が大きく湾曲していた、と。洪水のたびにここが大氾濫。本格的な氾濫するもんですから、現在の川幅を直そうじゃないかと、若干広げて直してみたんね。明治32年に一応竣工したんです。竣工したんだけど、依然として、ここが氾濫する。直しきれんかった。もっと大きくやればよかったが、神社もあるし、さわれないなーということからでしょうかね。詳しくはわかりませんけども。どうしたか。2次神通川の改修工事。1次は失敗したと。2次の改修工事で、馳越線工事と。馳越というのはね、横越流堤という意味です。それでよかったね?(出席されていたオブザーバーの県土木部河川課 主幹・計画係長の山中久生氏に確認された)横の堤防、そこへ流す、というね。横越流堤。次いきます。これですね、これが馳越線の図面。明治初年の姿。先程の図面ですね、こう曲がっていました。これを明治初年にはこうなんですね。この段階で、馳越線は放水路ですね、放水路。放水路で、2本で、要は、当初は、2本で流そうとしたんですね、2本で。ところがそうはいかなかったんですね。みんなこっちへ流れたんです。まぁわざわざまわるのもね、こっちから行くわね。そういうことですね。こういった図面がある。これは、本に載ってますから。こいつはどうすればいいか。この図面はね、この間、富山市の図書館へ行って来たらこういう図面が出て来ました。これは、現在の、昔の神通川の線。ここに放水路を作ろうとして、ここに1本引っ張った線ありますね。ちょっと薄く、横に幅があるんですよ、見たら。そこに水路を作ろうということで。ここに、最初から大きな水路できない、川を掘れないもんだから、当時の人は頭のいい方おられて、幅2m、深さ1.5mの水路を掘ったんですね。そして、洪水の時に、ダーッと流した。で、自然でもって流した。それで広がったんです。広げたんじゃないですよ。こういう芸当、荒技をやったんですね。そして、流水を利用して川を広げたんですよ。しかし、これは、よかったけども、後でえらい問題になるんですよ。ま、それはこれからお話します。こういった歴史があったということ。洪水被害で分水路を作った。馳越線と言いますけど、当初は分水路。この図面は、富山市の経営施策。明治34年に出てる。富山市区域の拡張予想図。拡張じゃないですね。こういう名前になってますが。こういうことです。次行きます。で、分水路のこれが、こっちへ作ったもんだから、ここは、もともとの川のここは、水流れんようになったんですね。荒れ地になったんです。廃川地。これが34万坪と言われてます。100万平米。しかし、これが、今、あとから埋めて、官庁街になる。これが、お城の城址。で、この図面見るとね、言いたいのはね、ここだけ言いたい。ちょっと違うかもしれんけど。ここに、「神通中学」と書いてあるんですよ。中部高校。ここにあった。ここは県庁の場所ですよ。こういった歴史があるんですよ。廃川の時は、ここにあった。後から埋めて、昭和10年には県庁できますけども、その時埋めて。これからお話しますが、その時は、これがここにきてる、中部高校。こういった歴史があります。富山市立図書館にある図面です。私作ったんじゃないですよ。馳越線の影響というのは、ちょっと知って頂きたい。非常にこれは大問題になったんですね。馳越を作るとね、下流に土砂が流れた時に、当時の岩瀬港というのが、一番下にありますね。これ、加賀藩の、富山藩でない、加賀藩ですね、加賀藩の主要港の一つでありましてね、明治時代になりますと、土砂によって、埋まった。しかし、これはね、明治時代になるとね、本来は、馳越線だけじゃなくて、その前から、だんたん土砂がたまった。江戸時代はね、山の木を切っちゃいかんという非常に厳しい法律というか規制があったんですね。明治時代になっていっぺんに緩んでしまって、木を伐採した。山が荒れたんです。山が荒れるということは土砂崩れが増えますね。それが川に流れてくるんですよ。そしたら、神通川に流れて来る。下に泥がたまる。下まで行ったのが「東岩瀬港」ですね。更に、馳越線に伴う土砂の流入があったと。港の回復には様々な対策がなされたが実際は効果がなかったので、解決策として、ちょっと薄く出てる。これ、もともとの川のはずなんですね、これは。川をこっちへ移したんですよ。だから、港と分離したんですね。だから、河道を西側へ移して、河口を作ったんですね。もともとの河口を今、港にしてるんですよ。こういう歴史があります。ちょっと時間の関係で抜けましたけど、ここから運河(富岩運河)を作るんですね。こういった歴史があるということ。馳越線はいろんな問題があって、これ問題になったんです。ちょっと飛びましてね、中村さんの話にもちょっと出ましたが、大正10年頃の桜橋の風景。この図面は、笹倉さんの作品だそうです。電気ビルの中に北電の桜橋支店というのがあって、「桜橋物語」というのを作っておられて、私、たまたま河川課長の時に、なんか、やっとりましたから、富山土木か。たまたま、ちょっと見つけた、これが出て来た。「桜橋物語」。この図面見ますと、桜橋は、人道があって、電車道、別々の線なんですね。そしてよく見ると、これが昔の鉄道ですよ。新幹線走ってる。手前に見ると、東岩瀬港から船、帆船ですね、上がって来とるんですね。大正10年。これ、埋める前。こういったものがいろいろ書いてありますが、私、わかりませんが。この図面から読み取れる。これが、公衆便所。富山県第一号だそうです。こういった図面があります。こういった図面は、当時、笹倉さんが描かれた、昔を知る、いい資料ですよ。ああそうか。神通川に帆船があがったんだ、とわかりますね。これ、運河を掘った時の様子ですね。これね、運河の掘削ということで。掘削の土砂を廃川地に。トロッコと作業員。これはね、昭和5年に着工して、9年に完成してるんですね。この間に一気に埋めてしまったんですね。そして、昭和9年に完成したということは、ここに書いてませんけど、富山県庁は昭和10年ですね。だから、埋めると同時に作ってるんですね。電気ビルもそうでしょう。こういった歴史がある。これは、松川茶屋の横、塩倉橋から上を見たもの。これはお城側、城址側。この姿が、昭和5年頃の姿。その頃はほとんど埋めてしまっとる。塩倉橋より上流をのぞむ。そして、現代の図面に、富山城の絵図を重ねてみました。下の図面は現在の図面として、昭和50年ぐらいの図面。富山市郷土博物館が編纂された図面ですね。これが外堀、すなわちこれ神通川ですね、昔のね。松川。よく見ますと、これが、薄い線、これが船橋です。現在の舟橋はここ。そして、これが富山県庁。西側の外堀がこう。ここANA。ここは護国神社の通りですかね、広いのはね。これ41号線ですから。こういう富山城の図面があって、現在の松川である前身の神通川がこうなってるということをまず頭に置いて頂いて、これから話を進めたいと思います。それで、これは、富山城址公園出ました。ちょっとなんか、私の不満みたいことちょっと聞いてください。私ね、この富山城のこの城址公園は、横にあって、これとセットにしなけりゃならんということを前から思ってる。これはちょっとね、実は、私、不満なのはね、たしかにこれはきれいですよ。きれいですけどね、富山城のことを語る時にね、なんかね、神保さん、神保長職(ながもと)ですか、佐々成政とか、いうところまで、時代をさかのぼって富山城のことを語らないと、「なんか、薄っぺらくない?」という感じするんですよ。ということは、神通川のあそこは、今、松川と言いますけど、「浮城」と言われたことがある。浮城といったらやっぱり、川がその向こうにあるから浮城と言えたんだと。そういうことまで語られたら、ロマンが足りないんじゃないか。思ったり、自分でしとります。それから、この富山城の方で、今、現在に、昔のもので示すことができるのは、千歳御門だけなんですよ。これは現存する唯一の建物。これは明治5年の時に、赤祖父さんという方。私、あこの仕事の関係で、あの道広げたりして。明治5年に買い取ったんです。あの時、まるで売却しましたからね。これが売却してよかったんです。残ったものは空襲で焼けてしまってるんですよ。たまたま田舎のあこに行ってたから残ってる。それを平成17年に寄附されたと。ここに設置されて、現在。だから、昔のもの、富山城の門、これだけなんです。ということもある。しかし、これだけで説明できないんで、なんかとプラスしなきゃならんがじゃないかな、と。私、こういうことまでさかのぼっていかないと、語れんがじゃないかな、と。なんか薄っぺらいな、と。これ自身がこれ、博物館でしょう。後からついてきたもんでしょう?ところが、こういうこと思っとったら、先ほども報告の中にありましたけども、5月9日の北日本新聞に朗報が出ましたね。「城址公園管理に民間活力」。そして、その中身見ますと、松川周辺エリアの再整備、これをやろうじゃないか、ということが、出ておりました。私、これに期待しとるんですよ。詳しいことはわかりません。でも、こういうことで出ること自身がやはり、城の周辺、松川周辺は城の周辺だということ、私、とらえとるんですけども、なんかやっぱり、もう少し、歴史的なものを考えなきゃいかんがじゃないかな。これ後から出ますことに絡んできますけども、そういうことを思いました。最後になりますがね、これ私が個人的なことも入るかもしれませんが、私、この少年時代のこれ出しましたのは、「滝廉太郎に思いをはせる」という名前で出しました。これ何度もみなさん耳にしておられますけども、滝廉太郎の銅像ですね。旧堺捨のあそこに立っとります。小学校跡ですね。彼は23年10カ月の生涯の中で、「荒城の月」などの数多くの名作を残しました。富山には7歳から9歳まで、1年10カ月ぐらいですかね、おられましたね。でね、調べていくうちに、こういう言葉が出て来たんです。これ、私作ったんじゃないですよ。「日本大百科全集」の解説にこう書いてある。『この荒城の月というのは、少年時代を過ごした、滝廉太郎がね、少年時代を過ごした竹田の岡城や富山城。富山城入っとる。富山城をイメージしたもの。』これでさえ、断定はしておりませんよ。ここには。ああそうか、という思いで書いてみたのが、これからお話することです。でね、「荒城の月」というのは寂しげな旋律ですよね。これはね、城址公園の石垣越しに見る月にぴったりなんですよ。というのは、岡城というのは、難攻不落のお城なんですよ。富山城は佐々成政が秀吉に10万で攻められて降伏した、落城した、悲しいです。陰と陽なんですね。そういったことから言っても、この佐々成政の悲哀の歴史からしても、まさに、富山城というのは、富山城址の石垣越しに見る月が、荒城の月だというふうに私は感じるんですよ。(浅岡)先生、そう思いませんか?私はそう思いますよ。(浅岡会長「その通りです」)すいませんね、話ふって。これが、私、そう思ったんです。たまたま先程先生がご挨拶の中でおっしゃった。なるほど、そうかな、と。私、ますます自信をもったところであります。最後になります。もう一つありました。みなさん、東京へ行かれる時に新幹線に乗られたら、見られた方。去年の11月頃に、新幹線の中に冊子ありますね。こういう冊子があるんですよ。この中に、「文化・偉人たちの北陸」コーナーで、滝廉太郎記念館が紹介されてました。これは大きなインパクトだったと思いますよ。心あるものがこれを見てどう思うか、と。だまっとったらそれは鈍感じゃないかな。この中には、「滝廉太郎が通っていた小学校は、旧城内にあり」、堺捨のあこはね、昔の旧城内なんですね、倉かなんかあって、学校にしたんね。「富山城の解体が進んで行く中」富山城のお堀を埋め立てて、変わっていく中、そういった街並を目にしていた、彼は。千歳御門も民間に売られて行く。その前に売られてますがね。寂しくなってなくなっていく。そういった寂しげな姿を目にしていたんです、彼が。その情景が、この中では、「その情景が、『荒城の月』の着想の元になったのではないか」というふうにまとめてありました。私はまったくその通りだと思います。こういうことでね。それで、今日私が言いたいことはこれで終わりなんですけども、そういうことでまとめています。ちょっと早く終わりましたけども。水の都とやま。私の思うのはね、これから、ハードもわかるけども、ソフト面で、神通川に関する歴史とか文化というものをね、さらに研究していって、そいつをなんか、この松川の関係に結びつけていく努力が必要かな、と。私は、こういうことで、こういったわかってることをいろんなところで話し合いながら、広げていって、認識を広げて行くということからやっぱりいかないと、行政も動かないんじゃないかと。私はそのように思います。ま、そういうことで、さらに語り伝えていきたいものです、と書いてありますが、私はそのように思う次第であります。ちょっと早く終わりましたが、私、口が早いものですから。以上で終わります。(拍手)

(文字起こし&文責:事務局〈月刊グッドラックとやま編集部〉中村青児)